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ブログ・コラム

グラズノフの交響曲──時代に翻弄されたオーケストレーションの名手

2025.03.29

アレクサンドル・グラズノフの交響曲を語るとき、どうにもこうにも困るのは、その評価が場所と時代によって千変万化することだ。19世紀末、ロシアでは「未来の巨匠」と持て囃され、20世紀前半には「伝統の守護者」として扱われ、それが一周まわると「古臭くて冗長」と切り捨てられる。ところが、近年では「いやいや、よく聴いてみると悪くないんじゃない?」と、音楽ファンたちが棚の奥から埃を払うようにして再評価しつつある。まるで実家に眠る祖父の形見のスーツを、今になってヴィンテージものとして着こなすような感覚だ。

では、なぜグラズノフはこのように評価が揺れるのか? それは一重に「どこに立っているのか分かりにくい」からだろう。彼の音楽はリムスキー=コルサコフ譲りの煌びやかなオーケストレーションを持ちつつ、チャイコフスキーのような感情過多なドラマは抑え気味。そのくせ、ブラームスのような構成美を目指すものの、どうにも煮詰めきれない。まるで見た目は洗練されたシックなスーツなのに、縫い目の裏側はどうもゴワゴワしているような、そんな音楽なのだ。

構成感の是非──まるで未完成のパズル

例えば、第5交響曲を聴くとする。序奏は厳かに始まり、さあ、これから壮大な何かが展開するぞ、と思わせる。しかし、第一主題が出てくると、そこまでの威厳あるムードがどこかへ飛んでいき、何やら気のいい田舎紳士が「まあまあ、一杯どうぞ」と語りかけてくるようなメロディが流れる。しかも、その後の展開がどうも散漫になりがちで、「えっと、ここで何が言いたかったんだっけ?」と作曲者自身も迷っているようにすら感じられるのだ。

これはグラズノフの交響曲全般に言えることで、あれこれと要素を詰め込むのはいいが、話の落としどころを考えずに書き進めた感が否めない。ロシア的なロマンティシズムにドイツ風の構成を融合しようとした結果、どこか「未完成のパズル」のような印象を残してしまうのだ。もし、彼の交響曲が文学作品だったら、名文家ではあるが結論がふわっとしているエッセイスト、というポジションになっていたかもしれない。

オーケストレーションの上手さ──「仕立て屋の腕は一流」

しかしながら、グラズノフの交響曲が「名曲」であるかどうかはさておき、「名アレンジャー」であることは疑いの余地がない。彼のオーケストレーション技術はロシア音楽界でも屈指のものであり、特に木管楽器と弦楽器の絡ませ方は絶品だ。フルートがちらりと顔を出し、クラリネットがひそひそ話をし、そこにヴィオラがしれっと会話に混じる。この絶妙な音色のブレンドは、まるで高級テーラーが一針一針丁寧に仕立てたジャケットのようだ。

この才覚は、晩年の「アルト・サクソフォン協奏曲」にも存分に活かされている。グラズノフはこの作品で、サクソフォンをまるで天使の声のように扱い、ロマンティックな響きに仕立て上げた。あの、ほんのりと甘く、それでいて滑らかな旋律は、まさに「円熟の境地」と呼ぶにふさわしい。もはや、どこに向かっているのか分からない交響曲の構成問題などどうでもよくなるほど、音色の美しさが際立っているのだ。

結局、グラズノフは何者だったのか?

では、グラズノフの交響曲は「傑作」なのか? それとも「惜しい作品」なのか? その答えは、聴く人によって違うだろう。ただ、ひとつ確かなのは、彼が音楽の世界において「絶妙なポジション」に立っていたことだ。作風は伝統的だが、新しさも覗かせる。重厚な構成を目指すが、途中でうっかり道草を食う。流麗なオーケストレーションを持つが、内容のまとまりにはムラがある。

しかし、そうした「迷い」や「揺らぎ」こそが、グラズノフの魅力なのかもしれない。何もかも完璧に整った交響曲なら、きっと現代まで生き残っていなかっただろう。だが、どこか引っかかる部分があるからこそ、聴くたびに「ん? これって本当はすごいのかも?」と新たな発見がある。彼の音楽はまるで、ちょっと変わった味わいのあるウイスキーのようなものだ。一口目は戸惑うが、じっくり味わうと、その複雑な香りが癖になってくる。

もし、グラズノフの交響曲をまだ聴いたことがないなら、ぜひ一度試してみてほしい。ただし、一度聴いてすぐに結論を出すのはおすすめしない。彼の音楽は、長い時間をかけてじわじわと効いてくるものなのだから。

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