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ブログ・コラム

アントン・ルビンシテインの作品は今一つなのか?──「手抜き」疑惑と旋律の魔力

2025.04.08

アントン・ルビンシテイン(1829-1894)の作品は、今日ではそれほど頻繁に演奏されるわけではない。彼はロシア音楽界の重鎮であり、ピアニスト、指揮者、教育者としての功績は計り知れないものの、作曲家としてはチャイコフスキーやラフマニノフほどの評価を得ているとは言い難い。その理由としてよく指摘されるのが、「作品の質にムラがある」という点だ。

特に、彼の代表作とされる**《ピアノ協奏曲第4番》(D minor, Op. 70)の第3楽章**を聴いてみると、「ちょっと手抜きっぽくね?」と思わず首を傾げたくなる部分がある。この協奏曲の第1楽章と第2楽章は、劇的な展開とロマン派らしい情熱的な旋律に満ちており、作曲家の力量を感じさせる。しかし、第3楽章になると、突如として音楽がやや平板になり、展開の妙が欠けているように思えるのだ。まるで「ここで勢いよくフィナーレに持っていけばいいだろう」とばかりに、慣用句的なパッセージで駆け抜ける様子には、どことなく「作り込み不足」を感じざるを得ない。

この「手抜き疑惑」をもう少し掘り下げてみよう。

ルビンシテインは対位法を軽視した?

ルビンシテインの作品には、対位法的な厳密さがあまり見られない。彼の作風は、旋律の美しさと和声の豊かさに重きを置き、バッハやブラームスのようなポリフォニーの緻密な絡み合いにはあまり関心を持たなかったように思える。これは、《ピアノ協奏曲第4番》だけでなく、彼の他の作品にも共通する特徴だ。

たとえば、彼のピアノソナタ(Op. 100)を聴いてみても、左手は基本的に和声を支える役割に徹し、右手が旋律を担うという構造が明確である。対旋律が絡み合うような複雑な書法は少なく、むしろショパンやリストの影響を感じさせる流れるようなピアニズムが前面に出ている。つまり、彼の音楽は「縦の動き(和声)」が中心であり、「横の動き(対位法的な声部の絡み)」があまり重視されていない。

これが「手抜き」と言えるのかは微妙なところだが、少なくとも彼の作曲スタイルは「構造の精密さ」よりも「感覚的な響きの美しさ」に重きを置いていたと言える。その結果、特に終楽章のような楽曲では、構成の妙よりも「勢い重視」の書法が目立つことになり、時には「安直」に感じられる瞬間があるのかもしれない。

それでもルビンシテインの旋律は魅力的

では、ルビンシテインの作品は「今一つ」なのか?というと、決してそうとも言い切れない。確かに、対位法的な構造の緻密さや、楽曲全体の統一感という点では、彼の作品はドイツ・ロマン派の大家たち(ブラームス、シューマンなど)に一歩譲る。しかし、彼の旋律の美しさは、間違いなく彼の音楽を特別なものにしている。

たとえば、《ピアノ協奏曲第4番》の第2楽章は、その抒情的な旋律がリストの作品にも通じる情感豊かな魅力を持っている。また、《天使の夢》(Op. 48-1)などの小品は、シンプルながらも深い叙情を湛え、今日でもサロン的なレパートリーとして演奏されることがある。

ルビンシテインの作品は、対位法の緻密さや構成の巧妙さを求めると物足りなく感じることもあるかもしれない。しかし、彼の音楽には、それを補って余りある「旋律の輝き」があるのも事実なのだ。

結論:「今一つ」かどうかは聴き手次第

結局のところ、ルビンシテインの作品が「今一つ」かどうかは、何をもって作曲の「質」とするかによる。構造的な精密さや対位法的な技巧を重視するリスナーにとっては、確かに物足りなさを感じることがあるだろう。特に、《ピアノ協奏曲第4番》の第3楽章のように、あまり作り込まれていないように思える部分では、その感覚が強まるかもしれない。

しかし、旋律の美しさやロマン派的な感情表現を重視するリスナーにとっては、彼の作品には独自の魅力がある。ルビンシテインは、構造の妙ではなく、瞬間的な音楽の輝きで勝負する作曲家だったのかもしれない。

最終的に、ルビンシテインの作品をどう評価するかは、聴く側の価値観に委ねられる。「手抜き」に見える部分すらも、彼の感覚的な音楽の一部として受け入れられるのか──それこそが、ルビンシテインという作曲家の面白いところなのかもしれない。

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