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理論なき異端児たち──「学ばずして成る」クラシック作曲家列伝
2025.04.07
クラシック音楽の世界では、体系立った音楽理論の学習が不可欠とされてきた。和声学、対位法、オーケストレーション、フーガ技法……。これらは「作曲家」の名を名乗る上での必須科目のように語られ、厳格な学習と研鑽を経てようやく一人前と認められる。しかし、そんな伝統的な教育を受けずとも歴史に名を刻んだ作曲家たちがいる。
「音楽理論?そんなものは知らん。知っていたら邪魔になったかもしれない」──これはエリック・サティの言葉である。吉松隆が自らを「独学の音楽家」と称したように、音楽教育の王道を歩まなかった作曲家は意外にも少なくない。では、彼らはどうやってその名を轟かせたのか?そして、果たして「無学ゆえの才能」とは存在するのか?
サティ──学んだが捨てた男
エリック・サティ(1866-1925)は、ある意味で「脱学問的作曲家」の元祖とも言える。若き日にパリ音楽院に入学するも、成績は壊滅的。周囲の学生たちが対位法や形式に精を出す中、彼は「退屈極まりない」と斜に構えていた。結局、音楽院はろくに通わずに退学。しかし、後年になってから突然スコラ・カントルム(当時の保守的な音楽学校)に通い直し、和声法を学んだ……が、結局「この知識は俺には必要ない」とばかりに、自らの作風に反映させることはほとんどなかった。
サティの作品は、不協和音の多用や形式の逸脱といった「未熟さ」に見える要素があるが、それが彼の音楽の魅力となった。むしろ彼の真骨頂は、既存の音楽理論を「わざと」無視する態度にあったのではないか。ピアノ曲《ジムノペディ》や《グノシエンヌ》が、そのシンプルな和声進行と不思議な浮遊感で人々を魅了するのも、彼が従来のクラシックの枠から外れたからこそ生まれたものだろう。
ムソルグスキー──理論より感情が先行した異端児
ロシア音楽史において、「音楽理論を軽視した作曲家」といえばムソルグスキー(1839-1881)を外すことはできない。彼は正式な音楽教育を受けたわけではなく、幼少期にピアノの手ほどきを受けた程度で、本格的な作曲の学習は独学だった。
ムソルグスキーの音楽の特徴は、従来の和声法や対位法のルールを無視し、むしろロシア語のイントネーションや民謡の旋律をそのまま音楽に取り込んだ点にある。特に彼のオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》では、メロディがまるで台詞のように自由に流れ、ドイツ・イタリア的なオペラの伝統とは一線を画す音楽が生まれた。
また、《展覧会の絵》のオリジナル・ピアノ版に見られる荒々しい和声処理も、音楽理論を熟知していれば「こんな無茶な進行はやらないだろう」と言われるような部分が多い。たとえば、「バーバ・ヤガー」では、増六の和音を不協和音的に扱いながらゴツゴツしたリズムを展開し、厳密な和声学を学んだ作曲家ならば避けるであろう響きが多用されている。
ムソルグスキーは「学ばなかったがゆえに、逆に自由で斬新な音楽を作ることができた」作曲家の代表格であり、そのラフで直感的な作風は後のストラヴィンスキーらにも影響を与えた。
吉松隆──ロックとSFが生んだ独学の作曲家
吉松隆(1953-)は、日本のクラシック作曲家として異例の経歴を持つ。音楽大学での正式な教育を受けず、独学で作曲を学んだ彼は、ドビュッシーやラヴェルの影響を受けつつも、ロックやプログレッシブ・ロックからのインスピレーションを強く受けた。
彼の代表作《アトム・ハーツ・クラブ組曲》や交響曲第1番は、伝統的な西洋音楽の構造を持ちながらも、独特な響きと色彩感に満ちている。吉松は、伝統的な音楽理論に縛られず、自らの感性を頼りに音楽を創り上げた。現代の作曲家の中でも、音楽大学のアカデミズムに属さずに独自の道を歩んだ稀有な存在である。
また、彼の音楽は、シリアスな現代音楽が前衛的な手法に走る中で、むしろ「調性を捨てずに新しい音楽を作る」というスタンスを取った点でも異彩を放っている。吉松の音楽は、まさに「理論を超えた感性」の産物である。
理論か感性か──結局、何が必要なのか?
ここまで紹介した作曲家たちに共通するのは、「伝統的な音楽教育に対する違和感」だ。彼らは、音楽理論に基づく「正しさ」を超えて、自らの直感を信じることで独自の作風を確立した。一方で、完全に理論を無視したわけではなく、必要な要素を取捨選択している。
クラシック音楽は、形式と規律に縛られる一方で、常に「枠を飛び越えようとする者たち」によって刷新されてきた。音楽理論を学ぶか否か──それは単なる手段の違いに過ぎず、本質的な問題ではない。結局のところ、歴史に名を残す作曲家とは、「既存のルールを知りつつも、それをどう扱うかを自ら決めた者」なのかもしれない。
