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バックバンドのアテブリはOKで口パクはダメ?聴衆の興味深い心理
2025.04.02
音楽業界には実に興味深い現象がある。バックバンドが演奏しているふり(=アテブリ)をしても多くの人は気にしないのに、歌手が口パクをすると途端に非難が噴出する。どちらも演出の一環であり、音楽を楽しんでもらうための工夫とも言えるのに、なぜこうした差が生まれるのだろうか。
「本物であるべき」理想と「完璧であってほしい」現実
「真実とは幻想の一形態である」──ニーチェの言葉は、この問題を見事に言い当てている。
多くの人は「生の音楽を聴きたい」と願っている。しかし、完璧な音質を求めると録音音源の活用は避けられない。一方で、録音音源を使うと「生の感動がない」と感じてしまう人もいる。この矛盾が批判の根底にある。
例えば、大規模なダンスパフォーマンスを伴うコンサートで、歌手が全力で踊りながら完璧に歌うことが求められる。しかし、実際に生歌で歌えば息が上がり、音程が揺れ、それがまた「プロのくせに音程が不安定」と批判される。まるでシュレーディンガーの猫のように、聴衆は「完璧でありながら生っぽさもある音楽」を求めるが、それは決して同時に存在し得ないのだ。
この現象の根底には、人間の深い「期待と失望の構造」がある。人は「自分の理想」が実現しなかったとき、強い反発を覚える。フロイトが指摘したように、私たちは無意識のうちに「幻想」を現実よりも優先し、それが破られたときに怒りを抱くのだ。
「裏切られた」と感じる感覚
「人は見たいものしか見ない」──ジュリアス・シーザーが言ったように、口パクが発覚したとき、「騙された」「期待していたのに」と感じるのは、実際には自分自身が作り上げた理想と現実のズレによるものだ。
対して、バックバンドの「あてぶり」はほとんど問題視されない。おそらく、聴衆の関心が主に歌手に向いているため、演奏が生かどうかを気にする人が少ないのだろう。ここには「認知的不協和」の心理が働いている。自分が熱狂する音楽が実は「完全にライブではなかった」と気づくと、人はそれを正当化しようとする。だからこそ、「バンドの演奏は関係ない」と脳内で処理し、問題は「歌手の口パク」だけに集約されるのだ。
「生であるべき」という思い込み
興味深いのは、聴衆が実際に生歌かどうかよりも、「生歌らしく聞こえるかどうか」を重視することだ。例えば、録音音源を流しながら、息遣いやブレス音を加えると「これは生歌だ」と思い込む人がいる。また、口パクでも表情や細かな演出を工夫することで「歌っている」と納得する人もいる。
「すべての芸術は欺瞞である」──ピカソがこう述べたように、実際に歌っているかどうかよりも、「自分が信じたい形に見えているか」が重要なのだ。そのため、たとえ口パクであっても、「ライブ感」がある演出をすれば満足する人が多い。
これは、観客が「自分の体験」を信じたいという心理に起因する。「プラシーボ効果」に似たもので、人は「本物だと思う体験」を「本物そのもの」として認識してしまうのだ。つまり、「歌っているように見える」だけで、それは十分に「歌っている」と思えるのである。
「見破った自分」に酔う楽しさ
一部の人は、口パクを見抜くことそのものを楽しんでいる。彼らにとっては「これは生歌か? それとも口パクか?」と見極めることが一種のゲームになっている。そして「自分は騙されなかった」と確信した瞬間に、優越感を覚える。
「賢者は疑い、愚者は信じる」──プラトンの言葉が示すように、見抜くことに価値を見出してしまう人々は、その行為自体を楽しんでいるのだろう。しかし、もし本当に生歌であることが重要ならば、口パクを批判するよりも、その場のパフォーマンス全体を楽しむことの方が純粋な音楽体験につながるはずだ。
これは「自己肯定感」とも関係している。自分が「他の観客よりも賢い」「真実を見抜いた」と感じることで、満足感を得るのだ。この心理がある限り、口パクを見破る行為そのものが目的化し、批判する理由そのものが二次的になってしまう。
「完璧な生歌」を求める矛盾
結局、聴衆の期待は一貫しているわけではない。「生歌が大事」と言いながら、わずかな音程の乱れを指摘し、「口パクはダメ」と言いながら、完璧なパフォーマンスを求める。バックバンドの演奏が録音であっても気にしないのに、歌手の口パクには敏感に反応する。
「世界は舞台、人は皆役者である」──シェイクスピアの言葉を借りるなら、音楽もまたひとつの演劇であり、聴衆はその幻想の中で楽しんでいるのだろう。これは「社会的構築主義」に通じる。何が「リアル」かは、個々の人間がどう受け止めるかに依存する。ライブ音楽も例外ではない。
生歌か録音かにこだわるよりも、「その場でどんな音楽体験を得られるか」が、本来の楽しみ方なのかもしれない。

