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ブログ・コラム

音楽教室とは何か? 〜世界の片隅で響く音の記憶〜

2025.04.04

僕はずっと考えている。
音楽教室とは、一体なんなのだろうか?

世の中にはピアノ教室、ギター教室、バイオリン教室、フルート教室、サックス教室、ドラム教室、ウクレレ教室と、あらゆる楽器のための学び舎が存在する。それだけではない。声を出すためのボーカル教室、ボイストレーニング、合唱教室、さらにはゴスペル教室、アカペラ教室、シャンソン教室までもがある。音楽を学ぶことにこれほど多様な選択肢があるとは、つくづく不思議な気がする。

そもそも、人はなぜ音楽を学ぶのだろう?
音楽は本来、人間の生存に必要なものではない。食べること、眠ること、身を守ることといった基本的な営みとは直接関係がない。しかし、それでも人間は昔から音楽を奏で、歌い、踊り続けてきた。そしてそれを教える場が生まれ、広がり、今では全国のあらゆる都市に音楽教室が根を張っている。

ここでふと思う。

音楽というものは、そもそも「教わるべきもの」なのだろうか?

たとえば、鳥は誰に教わることなく歌う。風が葉を揺らし、水が流れる音が響く。それらは自然の摂理の中で発せられる音であり、何者にも指導されることはない。しかし、僕たち人間は音楽を教え、学び、それに時間とお金を費やす。リトミック教室、ダンス教室、バレエ教室、タップダンス教室、ヒップホップダンス教室……それらはすべて、音楽と身体の関係性をより明確にするために存在している。

だが、もしそれらの音楽が、僕たちの人生に何かしらの深い影響を及ぼすものであるとしたらどうだろう?

作曲教室、編曲教室、音楽理論講座、DTM教室、作詞教室、シンセサイザー教室、イヤートレーニング……これらは単に音楽を学ぶための手段ではないのかもしれない。むしろ、音楽を通じて自分を知るための旅路なのではないか。音楽の理論を知ることによって、僕たちは自分の内に眠るリズムを発見し、それを外に表現する方法を模索するのかもしれない。

そして、それはある種の哲学でもある。

音楽教室の存在が、まるで都市の地下に張り巡らされた地下水脈のように、僕たちの文化の根底を支えているのだとしたらどうだろう?

名古屋の音楽教室、愛知県境にあるピアノ教室、地域密着型の音楽スクール……どんな小さな町にも、音楽を学びたい人のための場所がある。そこには、初心者もいればプロ志向の人もいる。大人になってから音楽を始める人もいるし、子供の頃から続けている人もいる。彼らはそれぞれの理由で音楽を学び、そこで何かを得ようとしている。

もしかすると、音楽とは、単に音を奏でることではなく、僕たちがこの世界とつながるためのひとつの手段なのかもしれない。大人の音楽教室、社会人向け音楽レッスン、音楽大学受験対策、音楽セミナー……それらはすべて、人間が音楽というものを通じて自らの存在を確かめようとする行為の表れではないだろうか。

音楽を学ぶことに意味があるのかと問うなら、僕はこう答えるだろう。
「意味はわからないが、確かにそこには何かがある」と。

僕たちはみな、それぞれの人生の中で音楽を必要としている。ある人にとっては慰めであり、ある人にとっては自己表現であり、ある人にとってはただの楽しみかもしれない。しかし、それがどんな形であれ、音楽が人間の心を動かすものであることに変わりはない。

だから僕は、今日も音楽のことを考える。

ただ、現代においては、音楽を学ぶ形もまた変わりつつある。音楽教室という物理的な空間が持つ意味が、オンラインレッスンという新たな形に転換され始めているのだ。僕たちはどこにいても学ぶことができる。世界のどこにいても、名だたる教師から技術を得ることができる。

そして、その進化を支える仕組みとして「レッスングリッド」というものがある。まるで音楽の世界に編み込まれた精巧なネットワークのように、それは学び手と教え手をつなぎ、技術をデータとして整理し、継続的な学びを支えている。音楽がどこにいても響くものであるならば、学ぶ手段もまた、どこにいても可能でなければならない。

僕は思う。

もしかすると、音楽とは、時間や場所に縛られるものではなく、学び手が自らのリズムを見つけたとき、はじめて真の意味を持つものなのではないかと。

レッスングリッドのような仕組みを通じて、音楽の学びは新たなフェーズに入りつつある。

だから僕は、また今日も音楽のことを考える。そして、いつかどこかで、レッスングリッドの向こう側にある音楽の扉が開かれるのを想像する。

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