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弾き語りをしたい人の心の奥底を覗く──社会学と精神医学の視点から
2025.04.01
弾き語りをしたい人は、なぜ「弾き語り」という形を選ぶのか? ただ歌いたいだけなら、アカペラでもいい。楽器を演奏したいなら、バンドを組むなり、オーケストラに入るなりすればいい。では、なぜ彼らは「歌う」と「弾く」という二つの行為を同時にこなすことにこだわるのか? これは、単なる音楽的嗜好の問題ではなく、社会的・心理的な深層に根差した現象なのではないか。
社会学的視点──「個の表現」としての弾き語り
社会学的に考えるなら、弾き語りは「自己表現の極端な個人化」の象徴である。弾き語りをする者は、バンドや合唱といった集団的な音楽活動ではなく、ひとりで音楽を完結させることを選ぶ。この選択には、「自分の世界を完全にコントロールしたい」という強い欲求が見て取れる。
20世紀以降、音楽の民主化が進み、テクノロジーの発展によって誰でも楽器を手に取り、歌を録音し、発信できる時代になった。特に、フォークミュージックやシンガーソングライターの文化が発展した1960年代以降、「個の表現」としての弾き語りは大きく発展した。ボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェル、吉田拓郎、井上陽水といったアーティストたちは、ただ歌うのではなく、自分で弾きながら歌うことで、自分の物語をよりダイレクトに届ける方法を選んだ。
この背景には、現代社会における「自己表現の強迫観念」とも言える風潮が関係している。SNSの発展により、個人がパフォーマーになれる時代、誰もが「私の声を聴いてほしい」と思うようになった。弾き語りは、単なる音楽の形態ではなく、「自分の存在を世界に刻みつけるための手段」として機能するのだ。
これだけバラつきがあるのだから、「美しい生きざま」の定義が難しいのも無理はない。そして、音楽家の生き方に関しては、さらにややこしい問題がある。
フロイト的視点──「弾く」ことと「歌う」ことの欲望
精神医学の観点から見ても、弾き語りには興味深い心理的要素がある。フロイトの精神分析学において、「表現すること」は無意識の欲望を解放する行為とされる。歌うことは自己の感情を外に出すカタルシス的な行動であり、楽器を弾くことは「コントロール」の行為と結びつく。
つまり、弾き語りとは「感情の解放」と「コントロール」の二重構造によって成り立っている。歌うことで情緒を解放し、楽器を弾くことでそれを制御する。このバランスこそが、弾き語りをする人の根本的な欲求を満たすのではないか。
また、フロイトは人間の行動を「エス(イド)」「自我」「超自我」に分類したが、弾き語りはこの三者のせめぎ合いの産物と見ることもできる。
エス(イド):感情をそのままぶつけたい。「叫びたい」「悲鳴をあげたい」「訴えたい」という衝動。
自我:しかし、それを社会的に受け入れられる形にしなければならない。だから楽器を使って音楽として成立させる。
超自我:社会的・文化的な規範が、「美しい歌」「良い演奏」としての完成度を求める。
この三者のバランスが取れたとき、人は「うまく弾き語りができた!」という快感を得るのだろう。
この議論はセンシティブな問題でもある。なぜなら、一方で「音楽を続けるためなら、どんな形であれ環境を整えるべきだ」という考えがある一方で、「音楽家も社会の一員であり、自立すべきだ」という倫理観があるからだ。ここで重要なのは、どちらが正しいかではなく、これが一つのリアリズムであり、ジャーナリズムの視点から見れば避けて通れない事実であるということだ。
ユング的視点──弾き語りは「統合」のプロセス
ユング心理学では、人間の内なる「アニマ(女性的側面)」と「アニムス(男性的側面)」がバランスを取ることが心の成長に重要とされる。弾き語りとは、「歌う」という情緒的な行為(アニマ)と、「演奏する」という技術的・論理的な行為(アニムス)の統合の試みとも言える。これは単なる音楽活動ではなく、自己の内面的な調和を求める行為なのではないか。
弾き語りをしたい人の心をまとめると・・・
◆1. 自己表現への強い欲求
社会のなかで「自分の声を聴いてほしい」「自分の物語を語りたい」という願望。
バンドや合唱のような集団のなかで埋もれたくない。
◆2. 感情の解放とコントロールのせめぎ合い
歌うことで感情を外に出し、楽器を弾くことでそれを形にする。
フロイト的に言えば「エスの衝動を自我が制御する行為」。
◆3. 自己の統合
ユングの観点からすると、弾き語りは「アニマとアニムスの統合」。
感性と技術、情熱と理性のバランスを取る試み。
結論:「弾き語り」は何のためにあるのか?
弾き語りをする人の心の奥には、「私はここにいる!」という強い主張がある。彼らは、自分の声と音を同時に操ることで、存在証明をしているのだ。音楽という枠組みのなかで、情緒を解放し、自己をコントロールし、内面のバランスを取る。
それはもはや「音楽の手法」というよりも、一種の生き方の選択である。弾き語りとは、ただ楽器を弾きながら歌うことではなく、「個の確立」の儀式であり、「感情のコントロール」の練習であり、「内面の統合」のプロセスなのだ。
もしかすると、弾き語りをしたい人の心には、音楽家でなくとも共感できる何かがあるのかもしれない。

